東日本大震災から7年が経つ一方で、福島県ではまだ時が止まった場所があります。2017年4月1日までに、福島県のいくつかの地域で避難指示が解除されましたが、そのうちの富岡町、南相馬市をハビタット・ジャパンのキャンパスチャプター(学生支部)のメンバーが、2018年3月1日から3日の三日間訪問し、ボランティア活動を行いました。関東にある10大学のチャプターから集まった学生たちはが参加したこの活動は、先輩から後輩へと毎年受け継がれています。
学生たちが最初に訪れたのは、福島県富岡町。震災の時点では、15,960人が暮らす町でしたが、2017年4月1日に避難指示解除されて以来、まだその3パーセントにも満たない458名しか町には戻っていません。昨年10月に再開したばかりのJR富岡駅近くには、除染で生じた放射性廃棄物を詰め込んだフレキシブルコンテナバッグ(フレコンバッグ)が山積みとなっている場所や、未だがれきを処理の作業を行う場所などがありました。そうした現実を目の当たりにしながら町の中心部へ向かうと、災害公営住宅が建てられ、2018年4月の校舎再開に向けて小中学校の工事が進められていました。しかし、一方で7年前の被害がそのままに残る場所も…。学生たちは町を歩きながら、住民に声をかけてお話を聞くことができました。
あるご高齢の男性は、
「避難していたときから、いつか避難指示解除になったら、富岡に戻ろうと思っていました。なので、昨年4月に解除になって、5月に戻ってきました。でもまだ近所もいないし、庭いじりもできない。昔の富岡がよかった…」とかつては桜がきれいな町だったと語ります。
また別の方は「今までは原発があっての町だったから、そうではない町として、これから生きていかなければいけない」と語ります。
現在の富岡町はスーパーが一つあるだけで、ファミリーレストランもカラオケ施設もないとのこと。コンビニは18時には閉まり、病院も診療所しかなく、歯医者も床屋もない不便な状況下で生活しなければなりません。しかし、こうした現状の中でも、何とか地域の中で復興のために人々が団結して取り組んでいかないといけないと努力を重ねる方々がいます。「外部の人は富岡が人が住めない場所だと思っている人がいるでしょう。でも、ここには人もいて、頑張って直そう、復興しよう!と努力しようと戻ってきている人がいることを忘れないでほしい」と学生たちに富岡町のことを伝えてほしいと語った方もいました。
翌日学生たちは福島県南相馬市小高区で、ボランティア活動に参加しました。2016年7月12日に避難解除なった小高区は、震災当時12,842人が生活していましたが、現在はその約2割にあたる2,469人が戻って生活をしています(2018年1月31日現在)。学生たちは小高神社にほど近い竹林で、伐採のお手伝い。5年以上も人の手が入らず、そのままになってしまった竹林の近くには民家もあり、これから戻ろうとされている人もいるなかで、安心して生活が再開できるように、伐採することになったとのこと。安全長靴と革手袋を履いた学生たちは、のこぎりを片手に作業をすすめました。こうした活動は全国から集まるボランティアの皆さんへと引き継がれ、翌日には、偶然別のキャンパスチャプターからのチームが作業を担当することになりました。
思いがつなぐボランティアのリレーが、震災から7年たった今でも東北のあらゆる場所で続けられています。福島後編では、ボランティアに参加した学生の声をお届けします。
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