tohoku_onagawa_20110821(21)s.jpg宮城県の最も東に位置する女川町は、5年前の東日本大震災で14.8mもの津波に襲われ、全家屋の89.2%が被害を受けました。(女川町企画課防災係発表)その多くが、推定44トン(女川町総務課秘書広報課発表)とも言われるがれきと化したのでした。右の写真は2011年夏に、海抜16メートルの高台にある町立病院から女川港方面を撮影した様子です。細長い谷地の女川では、水の勢いが増し、さらに高い波が病院の一階部分にまで到達しました。

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ハビタットが女川町で支援を開始したのは2011年夏。女川町はその立地から、宮城県の中で『最も支援の行き届きにくい場所』とされ、仮設住宅の建設も遅れ、計画された全ての建設が完了したのは、2011年の11月でした。ハビタットはその仮設住宅に、布団を購入・配布を担当しました。9月から11月にかけて、日本全国から集まったボランティアの協力の下、各仮設に入居されるご家族の分かを確認しながら、一軒一軒に布団を配布してまわりました。また、地域の復興には、人々が集うことができる場所、コミュニティスペースが必要だと考え、ニーズの高かった漁師さんたちが共同で使える作業小屋を建てる活動に取り組みました。

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そうして取り組んだ4年という活動期間中、最後に出会ったのが『コミュニティスペースうみねこ』です。代表の八木さんは、女川出身です。実家は女川町の高白浜にあり、その一帯は「浜の家」という屋号がつくほど海に近い場所にありました。震災を受け、八木さんの実家を含め、28軒あった民家はすべて津波に流され、残ったのは漁師だった八木さんのお父さんの作業場である、古い納屋だけでした。その後、高城浜地域でもがれき撤去が進み、跡地に仮設住宅が建てられました。仮設住宅には集会所があり、地域の人たちが集う場所もありましたが、高台にある復興支援住宅へと移転が進むと、住民は別々の場所で生活の再建が進みます。そこで、高城浜に集う場所がなくなってしまうことから、浜に唯一残った納屋を修繕し、誰もが集うコミュニティスペースを作りたい、そう希望するようになったと八木さんは語ります。

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ハビタットが八木さんに出会ったのは2013年。夏より、コミュニティ支援の一環として納屋を「ゆめハウス」へと修繕する取り組みが始まりました。八木さんは、「今でも青いTシャツのハビタットのボランティアさんの写真を、スライドショーに入れています。本当にたくさんの人に助けていただきました」と嬉しそうに語ります。 「ゆめハウスでは、昔から食べていた女川の料理を、地域のお母さんたちが集まって作ってくれています。また畑ではイチジクや唐辛子を栽培しています。唐辛子のような軽いものならば、高齢者でも簡単に収穫できるでしょう?女川は漁師町ですから、私たちが農業を中心に活動しているのは、地域の雇用の機会を奪わずに、収入を得ながら共存していけるようにするためなんです。」「今必要なのは、人々が集まれる場所」と語る八木さん。ハビタットが目指したコミュニティ支援は、地域の方が集い、自分たちでその地域のニーズに応えていけるような環境を整えていくこと。今まさに被災地の小さなコミュニティで、その活動が地域の方に引き継がれています。