東日本大震災から7年目の3月、関東にあるキャンパスチャプター(学生支部)から集まった学生たちが、1日から3日の三日間福島県を訪問し、ボランティア活動を行いました。この活動に参加したメンバーの一人、芝浦工業大学1年生の大川真吾さんは、特別な思いでボランティアに参加しました。大川さんは福島県大熊町の出身で、震災のあった小学校6年生までその場所で暮らしていました。現在大熊町は、福島第一原子力発電所の事故による影響で、帰還困難区域となっています。町の周囲にはバリケードが張られ、特別な許可がなければその中に入ることは許されません。大川さんは仲間たちと共に、福島のために何か役に立てたらと今回の参加を決めました。

 


 

福島研修に参加した学生ボランティア(大川さん写真下段中央)

震災当時卒業式間近の小学校6年生だった大川さんは、友人と下校途中で震災の時刻、午後2時46分を迎えたといいます。「突然の大きな揺れで、道路が大きく波打ち、歩くことも立っていることもできず、その場にうずくまっていました。たまたまその場にいたトラックの運転手さんが車を降りきて、僕たちを覆いかぶすように守ってくれました。」その後、歩いて自宅に戻り、ご家族と一緒に大熊町総合体育館に避難しました。

翌3月12日、福島県富岡町に暮らすお祖父さんに電話がようやくつながり、大川さんは富岡町へと避難。そこで、午後3時36分に起きた福島第一原発一号機の水素爆発の音を聞くことになるのです。「ボン!という音が突然聞こえました。まだ幼かったので、それが原発事故だとその時は分かりませんでしたが、その後すぐに消防車が来て、『ここは危ない!逃げろ!原発が爆破したから逃げろ!』と言われ、家族で隣の川内村の体育館に避難しました。普段は数十分で着く場所ですが、町の全員が避難したためすごい渋滞で、到着に何時間もかかりました。そこで全員に安定ヨウ素剤という錠剤が渡され、それを飲んだことを覚えています。被ばく防止のためだと言われました。」

2、3日川内村で過ごしたあと、避難していた全員に、あることが告げられます。「皆さんは、富岡にはもう戻れません」と。「数日で祖父の家に戻れると思って出ましたので、飼っていた犬も家においてきてしまいました。まさかあれからずっと、祖父の家にも、そして大熊の自宅にも帰ることができなくなるなんて、急いで大熊町を出たときには想像もしていませんでした」と語る大川さんは、その後東京や茨城の親戚の家で生活し、最終的には多くの大熊町民の避難先となった、福島県会津若松市に避難することになりました。

 

 

スリランカで家を建てる大川さん

その後中学、高校と会津若松で過ごし、震災以来一度も戻ったことがなかった大熊町に、昨年の2017年10月に一時帰宅申請を出し、自宅に帰りました。「昨年大学生になり、ハビタットのキャンパスチャプターに入り、仲間たちと一緒にボランティア活動に初めて参加するようになりました。夏にはスリランカで建築ボランティアにも参加し、実際にその場で目で見ないと分からないさまざまな問題を知りました。自分の目で見るため、そして伝えるために大熊町に戻ってみたかった。大熊町の今を、自分が伝えなければいけない、そう思いました。大川さんが伝えたかったこと、それは『今の生活が決して当たり前ではない』とこと。「自分のように地方から東京に出てきた大学生なら、休みになれば実家に帰ることは当たり前なことだと思います。でも、僕は自分のふるさとに帰ることはできません。だから、みんなに何一つ当たり前なんてことはないんだと、自分の経験から伝えたかったです。」

同級生とハビタットの合宿で偶然再会した大川さん

その後、キャンパスチャプターでの活動の中で、震災以来離れ離れになっていた、大熊町で同じ小学校に通っていた友人と、偶然に再開したとのこと。また自分の大学だけではない、全国のキャンパスチャプターの仲間たちとの出会いが、周りの人に感謝する気持ちを再認識させてくれたと言います。「震災以来自分のことを支え、大学まで行かせてくれた家族がいたからこそ、今の自分があると思います。また福島と全く関係がなかったキャンパスチャプターの仲間たちが、遠くから訪ねてくれ、福島のために何か手伝おうとしてくれていること、とても嬉しくそして誇らしく思います。」4月には2年生になる大川さん。今度は自分が後輩にとって親しく話せるような先輩になっていきたいと話してくれました。

 

 

  • 南相馬市小高区で、ボランティアに励む大川さん

  • ボランティアの後には、仲間たちと意見を交わす

 


【関連記事】
東日本大震災から7年東北の今 -福島前編-
東日本大震災から7年の東北の今 -宮城編-